政治家

野田聖子の家系図が複雑!父親や母親・兄弟・祖父についても

自民党総裁選挙に正式に立候補することを表明した野田聖子幹事長代行。

女性初の総理大臣誕生なるかと高市早苗氏とともに注目が集まっています。

これにともない、

総裁選候補の家系図がとても検索されていいて、野田聖子氏も同様に検索されています。

そこで今回は、

『野田聖子の家系図が複雑!父親や母親・兄弟・祖父についても』

と題し、

野田聖子氏の家系図や野田聖子さんの父や母といった家族について調べてみました。

野田聖子氏の血液型などはこちらから

それでは野田聖子氏の家系図を見ていきましょう。

野田聖子の家系図

野田聖子氏の家系図はこちらです。

引用元:twitter

家系図は一見シンプルなようですが、

調べて見ると意外とそうではなく、特に苗字に関しては複雑でした。

野田聖子さんの父である稔さんは、

国会議員だった野田卯一さんと光さんの間に生まれます。

したがって「野田稔」だったのですが、

母の光さんの兄弟に男性はおらず、島家には跡取りがいない状態でした。

そこで、野田聖子氏の父・稔さんが光さんの父である島徳蔵さんの養子となります。

島徳蔵さんは、一代で財を成した実業家、相場師で、跡取りは重要な問題だったと思われます。

要は、野田聖子氏の父・稔さんは母方のおじいちゃんの子供になったわけです。

名前も「島稔」となりました。

そして島稔さんの長女として聖子さんが誕生します。

名前は当然、「島聖子」でした

ところが、聖子氏が24歳の時、光さんが亡くなります。

野田卯一さんはひどく落ち込み、

「自分が死んだら野田家はなくなってしまう」

とつぶやきます。

野田卯一さんと光さんの間に息子は稔さんしかおらず、

その言葉どおりこのままでは野田家は途絶えてしまいます。

そこで卯一さん、稔さん、聖子氏の3人で話し合いをし、

結果、聖子さんは卯一さんの養子となり野田姓を継ぐことに。

名前も「野田聖子」となりました。

要は、父、稔さんの時と同じで聖子氏は、おじいちゃんの子供になったわけです。

野田卯一さんは、建設大臣や経済企画庁長官などを務めた大物政治家でした。

それまで政治には全く関心がなかった聖子さんでしたが、

このことがきっかけで政治の道へ進んでいくこととなります。

野田聖子の家族構成

野田聖子氏の家族構成は、再婚した夫と男の子が1人です。

野田聖子氏は2002年に参議院議員の鶴保庸介(つるほようすけ)さんと結婚しますが2006年に離婚。

(正確には夫婦別姓を提唱している野田聖子さんの方針で籍は入れていない)

2007年に今の夫である文信さんと出会います。

長らく籍を入れていない状態の2人でしたが、2011年に結婚します。

そのきっかけは、息子の真輝君が誕生したからです。

野田聖子氏は、40歳の時に自然妊娠が不可能な体であることが判明。

不妊治療を繰り返すも出産には至らず、「卵子提供」という道を選択します。

そして2010年、

卵子提供が法律で認められているアメリカで、

夫の文信さんの精子と提供されたアメリカ人の卵子による受精卵を野田聖子さんの子宮へ戻し妊娠しました。

妊娠中の野田聖子氏は、「切迫流産」の危険性や「羊水過多」に見舞われます。

それでも何とか真輝君を産むものの、

出産後は子宮を摘出する手術を受けるなど、妊娠してから出産に至るまでの過程は、かなりの身体的苦痛が伴いました。

真輝君の方も、突然の呼吸停止や右手右足の麻痺、食道や心臓の手術を受けるなど誕生してからは予断を許さない状況が続き、、。

懸命に生きようとする真輝君の姿が2人の結婚を決断させました。

真輝君は2021年1月で10歳になりました。

公務などの仕事に追われ、夜は夜で会合があったりするなど、1日中忙しい野田聖子氏。

真輝君の面倒は夫の文信さんが見ているようです。

真輝君としては、

「ママが仕事をするのは当たり前」

と言う認識のようで、

「ママ、今日は国会?」

とよく聞くそうです。

ちなみに、2021年4月21日東京地裁は、野田聖子氏の夫である文信さんに対し、

「反社会的勢力」に属していたという裁定を下しました。

文信さんがかつて、「反社会的勢力」と関わっていたというのは事実のようです。

ただ、もう1つの事実として、野田聖子氏と出会ったのは2007年のことで、

「反社会的勢力」と関わっていたのはそれ以前の話です。

これについてどうとらえるかは、人それぞれで、時期総理大臣にふさわしいかどうかは、

賛否両論分かれるところです。

間違いなく言えることは、文信さんは今はもうすっかり社会復帰されていて、

野田聖子氏にとって良き夫、良き父親であるということです。

野田聖子の父は政治家ではなかった

野田聖子さんの父、島稔さんは、政治家ではありませんでした。

島稔さんは、東京大学法学部卒業後、新日鉄に入社。

野田聖子氏の父親はサラリーマンだったということです。

転勤も頻繁にあったようで、野田聖子さんが生まれたのも転勤先の福岡県北九州市でした。

野田聖子の祖父は野田卯一

野田聖子さんの祖父は野田卯一さんです。

野田卯一さんは、大蔵省に入省後、大蔵事務次官を経て、1950年参院議員選挙に出馬し見事当選します。

第3次吉田内閣の時は、建設大臣に就任。

そして、1953年に衆議院議員に転じ、以後、9回連続で当選を果たします。

1976年には経済企画庁長官も務めますが、1979年、選挙に敗れ政界を引退します。

野田卯一さんが築き上げた地盤はそのまま、野田聖子さんが引き継ぐこととなりました。

野田聖子の母親は?

野田聖子氏の母親は、島弘子さんです。

野田聖子氏は10代後半の時、アメリカ留学をしますが、その時期両親は不仲でした。

父親の稔さんが家を出て行ってしまうなどし、母、弘子さんは精神的に病んでしまいます。

聖子氏はこのことについて、

「一番大変な時期にそばにいてあげられなかった」

と後悔します。

聖子氏は、アメリカ留学後、帝国ホテルに勤めますが、やがて政界へ転身します。

弘子さんは娘の選挙を応援するため、

「野田聖子 母 弘子」

という名刺を作り、3万軒を訪ね歩いたそうです。

時には土下座をしてお願いすることも。

その母の応援のおかげもあり、野田聖子氏は最年少で岐阜県議会選挙に見事当選しました。

そして月日は流れ今や時期総理大臣候補の1人となった野田聖子さん。

聖子氏は数年前に自分が住むマンションの隣の部屋を購入し、そこに弘子さんを呼び寄せたそうです。

これまでの感謝と、もう2度と寂しい思いはさせたくないとの気持ちからです。

忙しい公務、仕事の合間を縫って少しでも多く一緒に過ごす時間を作る、

何よりの親孝行だと思います。

野田聖子は3兄弟

野田聖子氏は3兄弟で、野田聖子氏は長女。

妹と弟がいます。

妹の名前は島桜子さんと言うようです。

妹の桜子さんは、コンサル業をおこなっているとの情報が見つかりました。

しかし弟に関しては一切何の情報も出ておらず、不明でした。

情報が入り次第、追記したいと思います。

まとめ

今回は、自民党総裁選に出馬表明した野田聖子さんについて調べてみました。

野田聖子氏の家系図は一見シンプルにみえるが、

実はそうでもなく特に苗字に関しては複雑。

野田聖子氏の家族は、再婚した夫と男の子が一人、

野田聖子氏の父親の稔さんは、政治家ではなく長年新日鉄に勤務していたサラリーマン。

野田聖子氏の祖父は野田卯一さんで、建設大臣や経済企画庁長官を務めた大物政治家。

野田聖子氏の母親は弘子さんで、現在はお互い近くに住み一緒に過ごす時間を大切にしています。

野田聖子氏の兄弟は、妹と弟がおり、3兄弟、

ということが分かりました。

野田聖子氏が立候補を表明したことで、更に女性初の総理大臣誕生の可能性が高まりました。

これにより、かつてないほどの盛り上がりを見せる自民党総裁選挙。

国民からの、特に女性からの支持がアツイ野田聖子氏。

世論調査でもその人気は抜群です。

ただ、総理大臣を決める選挙の選挙権は国民にはありません。

そう、見守るしかないのです。

どうなりますやら、注目ですね!